日本の忍者を最初に使ったのは聖徳太子って本当? |
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日本で初めて忍者を使ったとされるのは、飛鳥時代の皇族で政治家の聖徳太子という説があるそうです。 この時代の権力闘争は激しく、敵の動きをつかんだり、身を守るために「志能備(しのび)」つまり忍びと呼ばれるスパイを使って、政治の動きを探っていたのだそうです。 その根拠としては、聖徳太子は大伴細人(おおとものほそひと)を重用していたのですが、『忍術奥義伝』に彼は甲賀忍術の祖とあり、大伴細人こそが最古の忍者だと考えられていうからだそうです。 また、聖徳太子の親戚だった蘇我馬子(そがのうまこ)も忍者を使っていたという説もあるのですが、スパイとは違い政敵を排除するためだったといわれています。 それじゃ、忍者はいつまでいたの? 忍者がもっとも活躍したのは戦国時代といわれていますが、実際にスパイ活動などをしていた最後の忍者は藤田西湖(ふじたせいこ)といわれています。 1899年生まれで、1966年まで生きていました。 藤田西湖は、甲賀流14代目を自称し、家伝の忍術を受け継いだという。 東京日日新聞(現在の毎日新聞)などの記者を死ながら、太平洋戦争中にはスパイ養成学校であった陸軍中野学校の教官として忍術の講義を行ったとされ、自伝書もあります。 ちなみに、現在も忍術を学んだ忍術家は何人もいるそうですが、スパイ活動などは行っていないそうです。 忍術の教科書ってあるの? 忍者の里である伊賀・甲賀地方に伝わる忍術を収集した忍術書「万川集海(ばんせんしゅうかい)」があるそうです。 服部半蔵(はっとりはんぞう)、百地丹波(ももちたんば)と並んで「伊賀の三大上忍(さんだいじょうにん)」とされた藤林長門守(ふじばやしながとのかみ)の子孫が書いたとされています。 忍者の心得から、スパイ活動に用いる忍術、武器や道具まで、伊賀・甲賀などに伝わる忍術の集大成が記され、全22巻にもわたる超大作だそうです。 忍術書としては、他に「正忍記(しょうにんき)」「忍秘伝(にんぴでん)」があり、この3つが三大忍術伝書とされています。 しかし、忍術書はあくまでも参考書のようなものなのだそうです。 口頭のみで伝承された忍術が多く、忍術書を読んだだけでは忍者にはなれないそうですよ。 奥の細道の松尾芭蕉は、忍者だっだったって本当? 「奥の細道」を書いたことで知られる江戸時代の俳諧師(はいかいし)である松尾芭蕉が実は忍者だったのではないかという説があります。 その根拠は、「奥の細道」の旅において、1日で50㎞も移動した日があったり、名所を素通りするなど不思議な日程が多いからだそうです。 また、旅には莫大な費用がかかることから、幕府が資金援助してスパイ活動を行っていたのではないかとの説もあるのだそうです。 さらに、松尾芭蕉は、忍者の里・三重県伊賀国(いがのくに)出身なのです。 しかし、最近では、松尾芭蕉に同行していた河合曾良(かわいそら)こそが幕府からの依頼でスパイ活動をしていたのではないかといわれています。 服部半蔵は忍者じゃなかったって本当? もっとも有名な忍者といえば、服部半蔵ですね。 しかし、徳川家康に仕えた服部半蔵は、忍者ではなかったそうです。 服部半蔵とは服部家の当主が代々継ぐ名前で、一人の人間のことではないとのこと。 忍者だったのは、初代の服部半蔵「保長(やすなが)」のみで、家康に仕えた2代目の服部半蔵「正成(まさなり)」は武士なのです。 同じ名前のこの二人を同一人物と思い込み、忍者でもあり武士でもあると誤解されることが多いのだそうです。 ちなみに、もと江戸城で現在は皇居の門の一つである「半蔵門」や地下鉄の「半蔵門線」の名前は、服部半蔵に由来するといわれています。 |
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