禹の治水と中国史の流れ│40号 大禹の治水:機関誌『水の文化』│ミツカン 水の文化センター

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禹の治水と中国史の流れ│40号 大禹の治水:機関誌『水の文化』│ミツカン 水の文化センター

#禹の治水と中国史の流れ│40号 大禹の治水:機関誌『水の文化』│ミツカン 水の文化センター| 来源: 网络整理| 查看: 265

夏王朝と禹

中国の伝統というのは長い歴史と深くて広い内容があります。神話の時代から確かな歴史時代にかけて、中国には夏殷周(かいんしゅう)という三代の王朝があったとされています。夏王朝(かおうちょう/紀元前2100年ころから紀元前1600年ころ。以下、紀元前は前と略記)は、中国の史書には初代の禹(う)から末代の桀(けつ)まで17代、ほぼ471年続いたと記録されています。従来、伝説上の王朝とされてきましたが、近年、実在が見直されています。文字史料が発掘されたわけではありませんので、文献史料のいう夏王朝が実在したことを直接証明はできませんが、中国現代の歴史学界や考古学界では実在したものとみなされています。

この夏王朝を開いた人物が禹でした。『尚書』(後世では『書経』と呼ばれる)「堯典(ぎょうてん)」によれば、堯帝の時代に大洪水が起こったので、堯帝は禹の父親である鯀(こん)に治水を命じました。しかし9年たっても成果が上がりませんでした。また『尚書』「洪範」には、鯀が洪水をふさごうとしたときに五行を乱したので殺された、とあります。『山海経(せんがいきょう)』「海内経」には、帝の息壌(そくじょう/自然に盛り上がってくる土)を盗んで洪水をふさいだが、帝の怒りを買って殺された、とあります。いずれにせよ、鯀の治水事業は失敗したわけです。

鯀の事業を受け継いで治水に当たったのが息子の禹です。禹は鯀が誅されたときに、鯀の腹から生まれたという伝説があります。また、鯀も禹ももとは水神で、鯀は亀、禹は龍の化身であり、亀信仰部族から龍信仰部族に勢力が交代したのだ、という説もあります。

鯀の治水方法は「堙(いん)」といい、水没地帯を埋め立てる方法、禹の治水方法は「疏(そ)」といい、水路を切り拓き、堤防を築いて洪水を流す方法とされていますが、禹はまた「堙」方式も採用しており、両者の間で基本的には大差がない、とする議論もあります。

では、なぜ鯀は失敗者となり禹は成功者とされたのでしょうか。これは簡単に結論を出せる問題ではありませんが、例えば民族や部族間闘争の反映、信仰形態の違い、神話の伝承系統の相違、後世の歴史家らによる合理づけなどが要因として挙げられます。ただ、治水事業や自然観察の経験を蓄積することによって、「堙」よりも「疏」の方が水の性質に適合しており、「疏」こそが治水の基本なのだ、という認識が一般化した、ということは言えそうです。

ずっと後世のことになりますが、前4世紀ごろ、中国の戦国時代に活躍した孟子は、楊朱(ようしゅ)(注1)という人物を批判して、「楊朱という奴は、脛(すね)の毛を一本抜けば天下が救われるという場合でも、その毛一本さえ抜かない」と言いました。その意味は、楊朱は自分のことしか考えない奴だ、ということです。

孟子の言葉には拠り所があり、禹が泥の中を這い回って治水に苦心し、そのために脛の毛がみな抜けてしまったという話が前提になっています。ですから「脛の毛を抜く」という言葉だけをとらえたなら、それだけで社会が救われるというわけはないのですが、これは自分を犠牲にして労働するという意味にとらえなくてはならないのです。禹のことがわからなければ意味は通じません。

堯帝の後を嗣いだ舜帝から、治水の功績により、禹は帝位を譲られました。その後は代々禹の子孫が帝位を嗣いだので、ここに中国最初の世襲王朝(夏王朝)が成立しました。禹の治水事業は中国人の間に伝説となって継承され、今日でも中国各地に禹王廟が残っています。

日本にも、禹にかかわる碑や地名が20以上もあると聞いて驚きました。我が先祖たちにとっていかに治水事業が重大なものであったか、日本人がいかに中国の歴史・伝説に学んだかがわかります。

ところで禹は、後世、堯・舜・禹・殷(商が正称。後半は殷を都としたので、一般的には殷と呼ばれる)の湯王・周の文王・武王と並べて聖人として尊敬されました。特にそうした系列を尊崇したのは儒家の人たちでした。なぜ儒家の人々は禹をそれほどまで尊敬したのでしょうか。そこには儒家独特の見方がありますので、次に儒家の思想を見てみましょう。

(注1)楊朱(約前395年〜前335年) 戦国時代の思想家。楊子、楊子居とも呼ばれる。儒家や墨家に対抗し、個人の生命を重視し、他人を侵害しないという個人主義的な為我説を唱えた。孟子は楊朱の思想を異端として極力排撃した。『孟子』『荘子』『韓非子』などに断片的な学説が残る。

大禹陵碑の雄渾な筆致は、明代の紹興府知事 南大吉が記したものだという。

会稽山の頂きに立つ巨大な像以外にも、たくさんの禹王像があるが、写真はギリシャ彫刻を思わせる、一風変わった禹王像だ。

禹が山を削り拡幅したといわれる龍門は、別名禹門口とも呼ばれている。

かつては両岸に禹廟がいくつも建っていたが、日本軍によってことごとく破壊された。

黄河は黄土高原の黄土を削り、下流へと運んでいく。

今は、大禹廟跡であることを示す碑亭がひっそりと建つのみ。

河津博物館(文物局) 黄河は黄土高原の黄土を削り、下流へと運んでいく。俗に「水一斗土六升」つまり、1斗の水に6升の土が含まれる、といわれる。

禹門口を案内してくれた張仲勛さんが、河津博物館(文物局)で保管している禹王碑の見学に立ち会ってくれた。向かって左は、王芳さん。

伝統社会の基層は宗族制

儒家は孔子が始めたということになっていますが、孔子自身は「述べてつくらず、信じて古(いにしえ)を好む」(『論語』述而)と言っています。「自分はなにも創造的なことを言っているわけではない、昔のことを言っているだけだ」というのですから、孔子から儒家が始まったというのは本来おかしな言い方なんです。孔子が言った「いにしえ」というのは周の初めのことで、具体的にいえば周公(周公旦)の教えです。さまざまな政治制度や法の規定、文化の在り方など、一切合切を周公が基を創った、とされました。それが崩れてきたから孔子は周公の精神に立ち戻った社会にしよう、という努力をしたわけです。しかしこれは孔子の考えであって、実際に周公がこういうことをやったかどうかは別問題です。

周は前11世紀後半から前256年までの王朝で、前半の前8世紀初めころまでを西周といい、その後を東周といいます。西周は西安のそばにある鎬京という所を都としました。しかし、西から来た異民族に圧迫されて、洛陽近辺に都を移しました。それから後を東周といいます。東周の前半、前5世紀半ばまでを春秋時代といい、そのあとを戦国時代といいます。周王の権威は春秋くらいまでは何とか保たれましたが、戦国時代になると周は洛陽を中心とする小地方権力に過ぎないものとなりました。

孔子は春秋の末期に生まれ、失われてゆく周の秩序を何とかして回復しようと努力をしたのです。孔子の考えた周の秩序は宗族制(そうぞくせい)と封建制の形で保たれていたものです。宗族というのは、祖父—父—自分(男)—息子—孫というような男子の系統、つまり男系一族を指す言葉です。宗族制は、宗族の結束を強くする祖先崇拝と、成員の宗族内での位置によって決まってくる日常の行動ルール、言い換えれば「礼」を尊重することによって維持されてきました。その伝統が、中国の人たちに「関係こそが大事なのだ」という意識を植えつけました。私は1980年(昭和55)以降、何度も中国に行きましたが、行くたびに痛感するのは、人間関係のネットワークに入り込まなければ、何もできないということです。

宗族制には「礼」の秩序が欠かせませんが、礼は、君臣の間での作法、諸侯や臣下同士の訪問の儀式、冠婚葬祭の式次第などまで含む形式であると同時に、もっと大切なことは、そうした形式を成り立たせている気持ち(道徳)だと考えられました。孔子は人として最も大切な気持ちは「仁」だと考えましたが、仁の気持ちは、実は親や兄に対する気持ちがもとになっています。つまり、親に対する孝、兄に対する悌です。孝悌のうち、特に大事なのは孝です。孝とは、具体的に言えば父母に対して食べものや飲みものを捧げて大切にする、ということです。そういう孝を一番の基本にして出てくる徳目が仁なんですね。仁を大切にしたというのは、やはり目上の者に「仕える」ということが基本になります。仁とは、親に対する孝を一般的な人と人の関係にまで拡大していった考え方、ということになります。

禹は治水事業を成功させた点が評価されたばかりでなく、孝の徳目を身につけていた点でも評価されました。『論語』「泰伯」には、孔子の言葉として「禹は吾れ間然することなし。飲食を菲(うす)くして孝を鬼神に致し…」という発言が見えます。「禹は、文句の付けようがない。自分の飲食物を粗末なものにして、先祖の御霊に孝行した」という意味です。先祖に孝行するというのは、先祖の神霊に飲食物を捧げて、立派にお祀りをした、ということです。存命中の親に対しても、亡くなった先祖に対しても、飲食物を捧げるというのが孝だったのですね。禹は儒教の聖人としても尊敬されたわけです。

宗族の「宗」というのは、家の中で先祖の神霊が祀ってある大事な所、という意味です。ですから、大本(おおもと)の意味になります。清朝の末期に日本から宗教という言葉が入ってきたときに、中国人にはレリジョンなんていう発想はありませんでしたから、一番大事な教え、という意味でとらえました。そして中国で一番大事な教えとは、いったい何だろう、と考えました。それは儒教に他なりません。そこで、儒教は宗教である、という風につながっていくんです。しかし、儒教には必ずしもいわゆる宗教とはいえない面があります。社会体制であり、道徳であり、政治理念ですね。キリスト教とか仏教とは違いますね。

ただし、先祖の神霊を拝むわけですから、似たところもあります。元来、天を拝み、先祖を拝み、食べものや飲みものを捧げて神として祀ったわけですから、その面からいったら宗教と言って言えないことはありません。微妙なところですね。

封建制と郡県制

宗族制と並んで、周の大事な制度として封建制がありました。封建制は、周が殷を滅ぼしたとき、武王が一族の者や功臣に「そなたは、ここに国を建てろ」と土地を与えてできた制度です。土地に封じて国を建てるから封建というのです。周の人たちは、殷を滅ぼしたのは殷王が暴虐で天(最高の神さまである天帝のこと)を侮ってきちんと祀らなかったからであり、そこで天は、天をよく祀っている周に、殷に代わって王朝を開けという天命を与えたのだ、と主張しました。

天を祀るというのは、王が、定められた日時に決まった場所で、決まった手順を踏んで飲食物を捧げて行なうことです。そのことを周の人は徳と呼びました。封建制の根底には王の徳があったのです。武王や周公が、殷には徳がなく周には徳があると強調したことは『尚書』の中に出てきます。ただ、歴史的事実としては、その全部を信じるわけにはいきませんけれども。

孔子も周には徳があったから天命を受けたのだということを一所懸命宣伝したんです。この徳は後世の道徳の徳とは違って、神に飲食物を捧げて祀るという意味ですが、先祖の神霊を祀ることも徳である、ということになってきます。この徳を道徳の意味にまで深めたのは孔子でした。

孔子の考えでは、封建制と宗族制の秩序がきちんと保たれていることが大切でした。徳に基づく封建制の理念、祖先崇拝や親孝行を中心とした宗族のまとまり、これらをきちんと維持しようとしたのです。そして、天を祀っていいのは周王だけで、それ以外の人がやったら越権行為なんです。天を祀るのと同様、地を祀るのも、天下の名山を祀るのも周王だけ。それらの祀りを、いつ、どういう風にして祀るかという規定も、事細かに決められていました。封建制や宗族制の秩序の中心が、「祀る」ということなんです。そして、儒というのは祀りを担当する人という意味で、そういう人を総称して儒家(じゅか)といったわけです。

ところが、孔子が生きた春秋の末ごろには、封建制の秩序がだいぶ崩壊していました。諸侯同士が、周王の命令も待たずに勝手に戦争をし、本来は周王から封建されたものである他国を滅ぼし、自国の領地を広げていったのです。春秋の初めには国が140ぐらいあったといわれているんですが、春秋末期には40ぐらいに減少しています。次の戦国時代になるとさらに減って、主な国は七雄(秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓)といわれるように、どんどん少なくなっていったのです。周王の権威もまったくなくなってしまいました。

自国に近い国を滅ぼしたら自国にくっつけます。つまり県です。県の本字は縣で、これは懸と同じ意味で、ぶら下がる、という意味を持ちます。本国にぶら下げたわけです。ところが時代が進んで大規模な戦争が起こるようになりますと、本国から遠く離れた国々を征服するようなことが起きます。そうした場合、その地域をまとめて統括するようにしました。それが郡です。まとまった多くのものという意味で、群と同じ意味です。日本の行政系統ですと某県某郡となりますけれど、中国は県よりも郡のほうがずっと格が上です。

このように統治に際して郡と県をつくり出していったのが、郡県制(ぐんけんせい)です。郡や県には本国から官僚を派遣して統治させました。封建制の根底には徳があり、然るべき血筋の者が国君として統治するのですが、郡県制では統治の能力こそが重要で、時代の要請は徳から能へと転換していったのです。

三門峡ダムは、1960年(昭和35)西安の下流につくられた。当時は中国最大のダムだったが、流入する泥を少なく見積もるという計画ミスのために、貯水池に大量の泥が溜まった上、発電所のタービンも能力不足に陥ってしまった。今では、土砂を流し出すトンネルやタービンの性能を上げるなどの努力で、ダムとしての機能を維持しているが、発電量は当初計画の5分の1に留まっているという。ダム堰から下流へ。

三門峡ダムのサイトにある大禹は、筋骨隆々。

上流のダム湖。

ダム湖畔

殷の勢力圏 王朝の流域図『グローバルワイド 最新世界史図表 二訂版』(第一学習社 2008改定11版)をもとに編集部で作図

西周の勢力圏 王朝の流域図『グローバルワイド 最新世界史図表 二訂版』(第一学習社 2008改定11版)をもとに編集部で作図

春秋時代 王朝の流域図『グローバルワイド 最新世界史図表 二訂版』(第一学習社 2008改定11版)をもとに編集部で作図

戦国時代 王朝の流域図『グローバルワイド 最新世界史図表 二訂版』(第一学習社 2008改定11版)をもとに編集部で作図

秦の天下統一は法家の力

戦国の七雄の中で勝ち残ったのは秦でした。秦の始皇帝は前221年に全国を統一して秦王朝を開きました。始皇帝は郡県制を徹底して推し進め、統一後は中国全体を36の郡にしました。しかし秦は、はじめから郡県制の国というわけではありません。その方向へと強力に推し進めた人物がいたのです。孝公(前361〜前338年在位)の時代に活躍した商鞅(しょうおう/約前390〜前338年)という人物です。

商鞅は衛の人でしたが、秦に行って孝公に仕えました。商鞅が進めた政策は法令を最も重視するもので、商鞅は法家に分類されます。「人民に知識を持たせる必要はない。国の政策としては農業だけをやる」として、商業や工業を徹底的に否定しました。商業で金儲けをするようになると、みんながそちらに頭を使うようになって、農業がおろそかになる。また、議論に優れた人を官僚として採用するのもダメ。そんなことをしたら、みんな議論ばかりして農業をやらなくなってしまう。工芸品をつくるのもいけない。工芸品がいくら立派でも国は強くならない、というわけです。でも、人はみんな豊かになりたいですよね。ですから元気な農民は兵隊になって、その功績のみに賞を与える、という考えで強国をつくろうとしました。

ですから貴族が勝手なことをするなんていうのは、もってのほかです。こうした政策を貫徹するために、商鞅は法というものを非常に重視しました。法を犯した人間は厳罰に処しました。罪を犯した者だけではなく、一族すべてに連帯責任を負わせたのです。政府の政策としては、十のうち九は罰、褒めるのは一だけです。あるとき皇太子が法を犯しましたが、まさか皇太子を罰するわけにはいきませんので、後見役の公子虔を罰し、教育係の額に入墨を施しました。のちに公子虔がまた規律を犯しましたので鼻削ぎの刑にしました。秦の人々は法を守るようになりましたが、商鞅は大いに憎まれます。商鞅は宰相となり、秦は強国になりましたが、孝公が亡くなると、皇太子が即位して恵文王となり、公子虔は商鞅は反逆を謀っていると告発しました。商鞅は秦の都から逃亡し、途中で宿に泊まろうとしますが、宿の主人は「商鞅様の法令で、手形を持たない旅人を泊めると罰せられます」と断られてしまいます。商鞅はいったん魏に逃げますが追放され、封地の商で秦の討伐軍に攻められて殺されました。恵文王の命令で遺骸は車裂きの刑に処せられました。

このように非常に恨まれた人物ですが、商鞅のお蔭で秦はたいへん強い国になりました。そのような法家の路線を受け継いでいったから、始皇帝も天下統一できたのです。始皇帝が行なったことの一つに焚書坑儒というのがありますが、書物を焼き、儒者を穴埋めにするというのは商鞅が考えた教えを継承しているのです。

このように法家の理念というのは、法令を重視し、君主の意のままになる官僚がいて、その官僚が身分に応じて民衆をコントロールしていくというものです。つまり徳なんていうものは全然関係がなくなったのです。

秦の領域 王朝の流域図『グローバルワイド 最新世界史図表 二訂版』(第一学習社 2008改定11版)をもとに編集部で作図

漢代初期の郡国制 王朝の流域図『グローバルワイド 最新世界史図表 二訂版』(第一学習社 2008改定11版)をもとに編集部で作図

秦の始皇帝と五行思想

秦の始皇帝は極端な法治主義をとりました。その拠り所の一つが五行(ごぎょう)思想です。五行思想とは戦国時代の半ばごろから出てきたもので、元来は、堯舜から禹(夏王朝)それから殷周という王朝の推移を理論づける思想でした。つまり、なぜこのように王朝は推移したのか、その根拠を分析したのです。五行とは木火土金水(もっかどごんすい)という五つの要素、もしくは原理のことです。

木は燃えるから火を生み、火は物を燃して土を生み、土からは金属が産出し、金は溶けて水を生み、水はまた木を育てるというように、五行は次の要素を生みだす方向で循環します(これを五行相生と言います)。また、木は金属のナタに切られますし、金は火に溶かされますし、火は水に消されるというように、勝ち負けの関係にもあります(これを五行相勝または相克と言います)。また、土の要素を持つものは土徳(どとく)があると言い、火の要素を持つものは火徳があるといいます。王朝はみな土徳とか火徳とか、何らかの徳がある、と考えられました。

こうした五行の関係によって王朝も交替した、と考えたのです。たとえば木徳の王朝の次は火徳の王朝になります。木徳の王朝を戦争で滅ぼしてできた王朝なら、木に勝つ金徳の王朝になります。

五行思想は、のちにはさまざまな事象に当てはめられ、天地の間に存在するあらゆる物事の推移、変化を説明する思想となりました。いわば中国の世界観となったと言ってもいいと思います。五徳の内、特に土徳が重視されましたが、その根拠は農業を生産の基本にしていたからです。農業生産を安定させるという行為が、いかに重要だったかが理解できると思います。高貴な色が黄色とされるのも、土徳には黄色が配当されているからです。農村社会の基本は春に種を蒔き、夏に成長させ、秋に収穫して、冬に休息するという生活様式です。ですから時節は一年を単位として循環、再生するものだという意識も生まれました。

周の文王のときに赤い烏が赤い文字で書かれた文書をくわえて周のやしろに集まるという現象があったので、周は火徳とされました。秦は周王朝を破ったのですから、秦王朝は火に勝つ水徳だと自負しました。水徳の内容には北・黒・冬・六・厳格などの原則があります。そこで、秦の旗は黒でしたし、正月は冬の初めです。統一後、中国全体を36郡にしたのも、六の二乗だからです。もともと法令尊重の伝統がある上に、始皇帝の統治が一段と厳格だったのは五行思想に拠っていたのですね。

紹興・会稽山の大禹陵。施設の配置にも、五行思想に則った流儀があるようだ。

禹陵村の住民の多くは、禹と同じ姓である姒(じ)で、現在で144代目であるという。祖廟には、歴代の氏名が書かれていた。

五行思想を反映させ、木火土金水にあらゆる物事を配当したのが、五行の配当表だ。

漢王朝と儒教

秦はあまりにも急激かつ厳格に法令による政治をとったため、短時日で亡んでしまいました。秦に続く漢(前漢)は、南方の楚から出てきた項羽を、河南あたりから出てきた劉邦が破って、前206年に全国統一を果たした王朝です。漢王朝の力というのは、当初、中国全体の3分の1ぐらいにしか及びませんでした。直接統治できた所は郡とし、力が及ばない諸侯王の領域は国と称しましたから、郡国制と言われています。漢の初期には、国を滅ぼして郡の力、つまり王朝の力を強めようとしました。それが完成してくるのは、王朝ができて100年ぐらい経った、第7代皇帝の武帝あたりの時代です。

最初は、ともかく政権を安定させなくちゃいけません。人民は秦末の戦乱で疲弊していますから、まずは人民の力を回復しなければなりません。そのときの拠り所となった思想は黄老思想と呼ばれます。つまり黄帝と老子の思想です。黄老思想とは、できるだけ政府の干渉を避け、人々の生活力が自然に回復するのを待つというものです。黄帝は実在の王というより伝説上の古代の帝王ですが、中国文明の基を創った帝王として知られています。老子は実在の人物とすれば春秋末から戦国の初めころに活躍したことになります。

文帝(第5代皇帝)や景帝(第6代皇帝)のときも黄老思想が有力でした。しかし実際には法令によって王朝の力を強くしたいというのが本音です。それで法律を重視する法家的な政策に近づいていきます。法律というのは普遍性がありますから、現代のように万民に平等に適応されるわけではないとしても、どんな人でもあることをやったら罰を受ける、ということになっていないと機能しません。そういう法家的な傾向が、文帝時代あたりからちらほら見受けられるようになります。文帝も景帝も表面上は黄老思想を尊重した穏やかな人とされますが、実際には法家的な人材が登用されているわけです。

しかし、秦の例もありますので、法家政策をぱっと表に出すわけにいきませんから、慎重に行動したのです。宗族制も根強く残っていますので、建前は儒教でやったわけですよ。道徳も、宗族制で重要な孝の徳を忠の徳と読み替えていくのです。忠は、元来はまごころというような意味ですが、漢代では忠君の意味に転化していきました。官僚制の職責も封建制の身分に読み替えていきます。封建制というのは王がいて諸侯がいて、王にも諸侯にも臣下として卿(けい)・大夫(たいふ)・士(し)という身分がありました。卿などは君主の一族がなっている場合がけっこうあります。そこまでが支配階級で、その下に庶民がいるというヒエラルキーがあるわけです。そこで、郡太守とか県知事を卿や大夫、士として読み替えていくのです。本当は法治を推進する官僚なんですけれど、あたかも封建制の臣下のごとくに思わせるようにしたのです。

そもそも宗族制というのは男系の血族集団として閉鎖的にまとまる傾向にあります。地方分権的な社会に適合する組織であって、中央集権制になって宗族の秩序よりも君主の法的な権力だけが強力になるというのでは困るのです。しかし、皇帝の立場から考えてみますと、宗族なんてないほうがいいし、卿などの貴族なんか、いないほうがいいんです。全国を県とか郡にして自分の官僚に地方を治めさせたほうが都合がいいんです。そうした両方の都合あるいは利益を調和するものとして、儒教が尊重されたのですね。

景帝のときに諸侯王の領地を削減するという法家的な政策が行なわれましたが、そういうことをすると反乱が起きます。そのときに誰が割を食うかというと、そうした政策を推進した法家的な官僚です。反乱側の風当たりを弱めるために首を切られてしまいます。しかし、そうやって段々と封建制的な国の力を弱め、武帝のときにやっと王朝権力が安定してくるんです。本音を言えば、皇帝は官僚を郡とか県に派遣して、自分の意のままにやりたいんですよ。しかし、あの広い中国でそうした形で権力を維持するのは不可能ですから、それぞれの地方にある宗族的な社会の存在価値を認めていかないと折り合いがつかない。それに一番都合のいい思想が儒家思想なんです。

それで武帝のころに、儒教一尊といって、儒教以外の思想は尊重しない、となるんですね。今はいろいろな議論があって「そんなことはなかった」と言う人もいます。しかし、全体の流れから見ると、前漢という時代に儒家思想はいわば国教になって、儒教となったのです。

漢代には、おおむね官僚は儒教にもとづいて採用しました。武帝が、毎年国や郡ごとに孝なる者、廉なる者(注2)をしかるべき基準で推挙するように命じたのです。この選抜制は郷挙里選もしくは選挙といいます。ちゃんと人事担当官がいて、文字通り、「選んで挙げて」いたのです。郷挙里選で挙げられるには、知識よりも行動が重視されました。「あの人は親孝行だ」「財産を気前よく人に施す」というような良い評判が基準になりました。一番重視されたのは親孝行で、そういう人が太学(たいがく)に行って儒教を勉強して然るべき役職に就く、というようになります。ですから前漢というのは非常に儒教的な国家だったことがわかります。

後漢になると儒教はもっと盛んになります。選挙で挙げられた人は官僚になり、やがて豪族化する人も出てきました。それで後漢では、選挙された人たちが一つの勢力になっていきました。有力者は、ほとんど豪族化していきます。その豪族が貴族化してくるのが三国時代以降で、西晋、東晋以後は多くの大貴族が政権を担ったのです。

(注2)孝廉 父母への孝順、および物事にたいする廉正な態度を意味し、選挙の中でもっとも重要視された。やがてこの種の選挙は孝廉と通称されるようになり、漢代選挙制の中の最重要科目としての地位を占めるようになり、儒教的な教養と素行を兼ね備えている人物が主に推挙された。

夏県禹王村で訪れた禹城遺跡。だだっ広い野原の真ん中に、突如台地が盛り上げられ、その上に禹廟が建てられている。台の下に開いている穴は、作物の貯蔵に使われていたが、暑い夏と寒い冬を乗り切るための住まい〈ヤオトン〉も同様にしてつくられる。

収穫の季節、とうもろこしが道一杯に並べられるが、実を取ったあとの芯はあとから溝に落とされて燃やされる。

村には禹城の城壁がまだ残る箇所がある。版築という技法でつくられている。

三国時代 王朝の流域図『グローバルワイド 最新世界史図表 二訂版』(第一学習社 2008改定11版)をもとに編集部で作図

西晋の領域 王朝の流域図『グローバルワイド 最新世界史図表 二訂版』(第一学習社 2008改定11版)をもとに編集部で作図

東晋の領域 王朝の流域図『グローバルワイド 最新世界史図表 二訂版』(第一学習社 2008改定11版)をもとに編集部で作図

五胡十六国時代 王朝の流域図『グローバルワイド 最新世界史図表 二訂版』(第一学習社 2008改定11版)をもとに編集部で作図

南北朝時代 王朝の流域図『グローバルワイド 最新世界史図表 二訂版』(第一学習社 2008改定11版)をもとに編集部で作図

随の統一(589年) 王朝の流域図『グローバルワイド 最新世界史図表 二訂版』(第一学習社 2008改定11版)をもとに編集部で作図

貴族社会から官僚国家へ

後漢あたりから唐代まで、豪族・貴族の勢力が非常に強い時代が続きました。しかし、五代に貴族が全部没落したあと、代わりに出てきたのが宋以降の官僚社会です。官僚を採用するのに科挙の試験が重視されるようになりました。科挙の試験自体は隋代からあったのですが、きわめて重要になったのは宋代からです。

唐代の科挙では、一番重視されたのは詩です。宋以降のように政策論もありましたが、詩を詠むことが一番大切にされました。しかし、どんなに立派な詩を詠む人だって政治的な能力があるとは限りませんが、そういう時代だったんです。

日本では白楽天が人気がありますが、それはわかりやすいからです。杜甫の詩は難しい。東晋や南朝の詩はもっと難しい。なぜ、難しいのかといえば、多くの表現に典拠(出典)があるからです。典拠がわからないと、本当の意味は理解できません。だから大変な教養が必要です。その典拠たるや、儒教の経典であるとか、歴史書であるとか、あらゆるところから引かれています。

中国の詩は杜甫の詩を代表として、政治的あるいは社会的なことがらが詠まれています。男女の関係を詠んでも、どこかに社会的な問題がある。ですから科挙の試験でも詩が重視されたのですね。中国は歴史始まって以来、徹頭徹尾、政治的な社会でした。

開封の禹王大公園。黄河を見下ろす山の頂きに、巨大な禹王像が立つ。禹が手に持っているのは、土木工事に用いる鋤(すき)だが、その形を模してつくられたのが貨布銭。地下に何千年も前の遺跡が眠っている中国では、こうした古銭が土産物屋で売られている。

開封の禹王大公園。黄河を見下ろす山の頂きに、巨大な禹王像が立つ。禹が手に持っているのは、土木工事に用いる鋤(すき)だが、その形を模してつくられたのが貨布銭。地下に何千年も前の遺跡が眠っている中国では、こうした古銭が土産物屋で売られている。

鋤(すき)を模してつくられたのが貨布銭。

唐の支配(初期) 王朝の流域図『グローバルワイド 最新世界史図表 二訂版』(第一学習社 2008改定11版)をもとに編集部で作図

五代十国時代(950年代) 王朝の流域図『グローバルワイド 最新世界史図表 二訂版』(第一学習社 2008改定11版)をもとに編集部で作図

北宋と遼(11世紀後半) 王朝の流域図『グローバルワイド 最新世界史図表 二訂版』(第一学習社 2008改定11版)をもとに編集部で作図

南宋と金(11世紀後半) 王朝の流域図『グローバルワイド 最新世界史図表 二訂版』(第一学習社 2008改定11版)をもとに編集部で作図

中国の領域拡大と客家

ここで、中国領土の拡大について考えてみましょう。いわゆる中華文明ができたのは、3000年くらい前で、せいぜい遡って4000年くらい前のことだと思います。つまり夏殷周の時代で、中心地は黄河中流域、今の山西と河南の辺りでした。夏と殷は山西と河南を中心として、河北と安徽の一部ぐらいでしたが、次の周は陝西から起こりました。山東や河北にも封建国家が生まれています。春秋時代に入ると、夏殷の山西と河南、西周の陝西に、安徽、山東、江蘇、河北などが加わります。また、黄河中流域のいわゆる中原諸国とは別に南方には楚が起こりました。楚の本拠地は湖北と湖南で、河南の南方です。春秋時代は、中原諸国と南方の楚との対立が続いた時代です。楚は陝西の秦に圧迫され、安徽から最後には山東まで逃げて滅ぼされました。長江下流には呉や越が起こり、浙江や江西も領域に入ってきました。

秦の始皇帝が全国を統一するころには、四川、浙江、福建、広東、広西あたりまで政権の力が及んだようです。広西に運河を開削していることをみると、たしかに政権の力はある程度及んでいたでしょう。しかし、南方が「中国化」してくるのは、まだ後代のことでした。

中国では、人口の大移動が4回ありました。1回目は前漢の末期、2回目は西晋から東晋にかけてで、このときは地縁血縁でまとまった一族郎党が集団で逃げました。その集団のことを部曲というんですが、部曲単位で逃げたのです。3回目は唐代の半ば、4回目は満州民族の金が入ってきた時代です。こうした人口移動を経て、南方が中国化していったわけです。中華文明の中心は黄河流域から長江流域に移り、さらに南方の珠江(しゅこう)まで下がっていくんです。しかし、その先がない。それで海外に出ざるを得ません。一人二人がバラバラと出るのではなく、まとまって海外に出た。行った先では華人街をつくる。そのとき中心になるのは宗廟、つまり一族の先祖を祀った廟なんです。海外に行った者、つまり華僑は宗廟を中心にしてまとまっているのです。宗族制は変化しながらも、しぶとく生き残っていくわけですね。

民族が北から南に移動したという現象のために、他所から来た人だという意味で、客家(はっか)と呼ばれる人たちが誕生しました。現在、客家と呼ばれる人々は、古くても宋代ぐらいからの人たちのようです。客家の人たちは故郷を持たずに他人の領域に入っていくわけですから、頼りになるものといったら客家同士の連帯とお金です。それで客家の人たちは主として経済と政治の分野の一翼を担い、政治家や実業家が多く出ています。鄧小平もその一人です。

最近は激しく社会が変化していますが、伝統とのかかわりが無くなったわけではありません。中国における近代化は、清朝が滅び中華民国になってすぐというわけではありません。さまざまな紆余曲折があり、さらに日本との戦争とか文化大革命とか、近代化を阻む要因がいっぱいあって、鄧小平が「改革開放」の旗振りをしてから、やっと現在の中国の基本ができたといえます。

道観(道教寺院)の調査から

最後に私自身の道教調査についてちょっとお話しします。私は、文化大革命が終息した1970年代半ばから道教が少しずつ復活してきたということで、1985年(昭和60)以降10年ほど調査に行きました。ご承知のとおり、文化大革命では宗教は否定され、古いものはみんなダメだとされました。仏教ダメ、道教ダメ、儒教もダメですね。道観やいろいろな廟もずいぶん壊されました。神像はことごとく壊され、石碑でさえ、たくさん破壊されました。道観は、建物として残っていても、倉庫とか学校とか別の目的に転用されていました。道教の文物は、よほどの山奥に行かなければ、昔のものは残っていません。廟などは日本軍が壊したものもあります。今見られる禹王廟も、だいたいが新しいものだと思います。

その後、外国からの圧力もあって信教の自由が認められました。しかし、道観の外に出て民衆に布教するとか、人の家に行って活動することなどは認められませんでした。現在はだいぶ自由になってきているようです。道観もかなり再建、修復されています。東岳廟や媽祖廟なども結構あります。媽祖は本当は道教の神様ではないんですが、関帝などと同じように道教が取り入れた神様です。道教は何でもかんでも取り入れますからね。遡って考えてみると「なんだこれは、カエルじゃないか」というような神様もいます。そういうのは、特に南方に多いんですよ。

2011年(平成23)の12月に香港で道教の学会がありました。席上、ある道教学の大家は、現在は道教の黄金時代だと言いました。経済が発展すればそれだけで良いというわけではなく、やはり精神的拠り所が必要なのでしょうね。道教はその一つですが、道教界人士の熱気たるや当たるべからざるものがあります。これから中国社会はどこに向かうのか、道教の動向も含めて、注意して見ていきたいと思っています。

取材:2011年10月25日 (2012年1月18日補訂)

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