古代地中海の戦艦、ガレー船の誕生と進化 – Hi

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古代地中海の戦艦、ガレー船の誕生と進化 – Hi

2024-07-07 21:33| 来源: 网络整理| 查看: 265

水中考古学 ガレー船 0発掘された土器片や陶器などに描かれたガレー船の描写から再現された紀元前750年頃の古代ギリシャのガレー船。(Morrison, 1995)

ここからは古代地中海の「ガレー船」について見ていきましょう。

ガレー船 (Galley: Rowed ship, Oared ship) というのは、多数の漕ぎ手によるオールによって推進力を得ることに特化した船のことをいいます。大きな推進力を得るためにより多くの漕ぎ手を乗せることを重視したその船体は、今までの章で見てきた主に商船として使用されるラウンド・シップ (Round ships) よりも細長くなっており、オールが海面に届くよう背も低くなっています。

ラウンド・シップは丸みを帯びた船体内部に多くの積み荷を載せる構造になっており、その推進方法も風力による帆走となっています。帆船による海上貿易は一般に陸上で物を運ぶよりも10倍効率が良いとされるのです。船体も背を高くして、より多くの荷物を積めるようにしています。

これに対してガレー船は長い航海には不向きな構造になっています。まず多くの漕ぎ手を乗せるために沢山の水と食料を積まなければなりません。そのため船体内部の多くの空間が漕ぎ手と水や食料に占有されてしまいます。しかし水や食料を多く積み過ぎると船が重くなり、せっかくの漕ぎ手による推進力が落ちてしまいます。そのため多くの場合、ガレー船は必要最低限の積み荷や食料しか積んでいませんでした。つまり、ガレー船を運行するためには、最長でも3~4日ごとに港や陸地で水や食料を補充するか、または漕ぎ手を含めた乗組員をこまめに陸地に上げなければなりませんでした。もちろんガレー船にも取り外し可能なマストと帆が取り付けられ、状況に応じて帆走が可能でした。しかしながらその細長過ぎる船体は帆走には不向きだったとされています。(帆走に最適な船体の全長と最大幅の比率は4:1とされており、古代の帆船 (Round ship) の多くはこの比率に従って造られていました。)

ではなぜ、この航行の用具としては効率の悪いガレー船が使用されていたのでしょうか。それはガレー船の運行においては、風力や風向きなどを考慮する必要なかったからなのです。漕ぎ手によって推力を得ていたガレー船は無風状態や逆風でも自由に動き回ることが出来ました。この特性を生かしたガレー船は古代世界の海戦における戦艦として能力を発揮していったのです。

ガレー船も当初は兵隊を甲板上に乗せて海上を駆け回る兵員輸送船のようなものでした。しかし次第に船の船首部分が突撃用に変貌していき、ガレー船自体が兵器として進化していったのです。この兵器として使用された船首部分をラム (Ram) といいます。このラムの誕生と、漕ぎ手の座っていた漕ぎ座の変化から古代地中海におけるガレー船の進化を見ていきましょう。

青銅器時代、ミケーネ文明の戦闘船(紀元前1100年頃) 水中考古学 ガレー船 2紀元前1100年頃の都市、ピュロス (Pylos) から発掘された陶器に描かれたミケーネ文明圏のガレー船。(Wachsmann, 2009) (Original image from: Korres, G. S. 1989. Representation of a Late Mycenaean Ship on the Pyxis from Tragana, Pylos. in Tropis I: 177-202.) 水中考古学 ガレー船 3紀元前1100年頃の都市、アシニ (Asine) から発掘された陶器に描かれたミケーネ文明圏のガレー船。(Wachsmann, 2009) (Original image from: Casson, 1973) 

上の2つの図は紀元前1100年頃のミケーネ文明圏から発掘された陶器に描かれていた初期のガレー船です。船首下部に前方への突起部分がみれます。しかし、この突起部分は「ラム」というにはまだ小さ過ぎるため、敵船への突進用のラムではなく、波を切り推力を得るためのフォアフット (Forefoot) であったと考えられます。

また両方の図から古代のガレー船の特徴の一つである垂直の船首も見て取れます。フォアフットと垂直の船首が古代地中海においてガレー船に用いられたのは、そのガレー船の用法ゆえといえるのです。

帆走を主とする商船は後方から吹く風を帆に受け走ります。つまり波の上を乗るように進むため、丸みを帯びた船首を持つことで効率よく帆走出来るのです。対してガレー船は風の強さや方向に拘らず進まなければなりません。波とは逆向きに進む能力も必要であったのです。その為に波を切って前進するために効率の良い船首が必要でした。よって、ガレー船には波を切り裂くためのフォアフットとそこから上方向にのびる船首が用いられたと考えられるのです。

ギリシャ文明初期のガレー船(紀元前850~紀元前750年頃) 水中考古学 ガレー船 4古代ギリシャのアテナから発掘された土器(紀元前850年~800年頃)に描かれたガレー船。(Morrison and Williams, 1968)

古代ギリシャ文明が繁栄を迎えると、その多くの都市国家で陶器がつくられ、装飾として多くのガレー船が描かれました。この時代に陶器などに描かれるガレー船は非常に簡略化されていたために、構造を正確に推察するのは難しいのですが、フォアフットにしては必要以上に飛び出た船首部分を有しています。これらの絵からだけでは断定できませんが、徐々に攻撃用兵器としてのラムが姿をあらわしてきたといえます。

船首と船尾には部分的に上部デッキのようなものが描かれており、さらに様々な武器を持った兵士も描かれています。この時代のガレー船は、このような描かれ方が多く、既にこれらが海上戦闘によく使用された船であったと推察できます。

水中考古学 ガレー船 5古代ギリシャのアテナから発掘された土器(紀元前760年~735年頃)に描かれたガレー船。(Morrison and Williams, 1968) 水中考古学 ガレー船 6古代ギリシャのアテナから発掘された土器(紀元前760年~735年頃)に描かれたガレー船。 (Morrison and Williams, 1968) (Photo courtesy Chuzeville)

紀元前750年頃になると、より詳細にガレー船が描かれるようになってきます。これらの描写に見られる漕ぎ手は横が開かれた一段目か、オープン・デッキの甲板上に座るように描かれています。これらのガレー船の漕ぎ座は二段になっているようにも見えますが、上部は甲板としても使われています。船体構造として漕ぎ座が二段になっているガレー船の登場はまだ後の時代のことになります。漕ぎ手が見える作りになっている初期のガレー船を「アフラクト・ガレー (Aphract galleys) 」といいます。

水中考古学 ガレー船 7発掘された陶器や土器片に描かれたガレー船から考察・復元された古代ギリシャ初期のガレー船のイメージ図、船首部分。(Casson, 1973)

このアフラクト・ガレーの絵のほとんどには、船体の上部に二つのウェールが描かれており、一段目にもウェールに似たキャップレイルが描かれています。これらの部位が長い船体を補強し、波によるホッギングとサッギングの影響から守っていたと考えられます。

さらに興味深い点は、いくつかのアフラクト・ガレーの描写において、キャップレイル近くの手すり上にソール・ピン (Thole pins: かい受け軸) とよばれるオールを引っ掛け、進行方向とは反対向きに座った漕ぎ手のオールを引っ張る力を推進力に変えるための部位が描かれていることです。この部位を強調して描いているところから、紀元前750年頃の古代ギリシャではこのソール・ピンの機能面の重要性を理解していたのだと考えられます。

古代ギリシャの50人漕ぎガレー船、ペンテコンターの登場(紀元前750年頃) 水中考古学 ガレー船 8古代ギリシャ文明圏の都市国家、スパルタから発掘された象牙の飾り板(紀元前600年頃)に描かれたガレー船。(Bass, 1974) (Illustration courtesy National Museum, Athens)

紀元前750頃にはホメーロスの叙事詩にもガレー船の記述が現れてきます。その中で最も明瞭な記述で登場するのが「ペンテコンター (Penteconter) 」と呼ばれるガレー船です。ペンテコンターとは「50人によって漕がれた船」という意味で、その記述によるとペンテコンターは全長が約36.6メートル、内23メートルが漕ぎ手のためのスペースであったとされています。ペンテコンターは片側に25人(計50人)の漕手を擁したガレー船であったと考えられます。

初期のペンテコンターは50人の漕ぎ手を搭載したガレー船という定義があったようですが、その後は次第に古代ギリシャ文明圏のガレー船の総称として「ペンテコンター」が使われたようです。

後に漕ぎ座が二段になり漕ぎ手が増えても、紀元前500年頃に進化したガレー船である「トライリム」が登場するまで「ペンテコンター」はガレー船を指し示すことばとして使われました。

水中考古学 ガレー船 9初期のペンテコンターの復元図。(Illustration from: http://www.naval-encyclopedia.com/antique-ships/) 二段漕ぎ座のペンタコンター(紀元前730年頃) 水中考古学 ガレー船 9古代ギリシャのアテナから発掘された陶器(紀元前735年~710年頃)に描かれた二段漕ぎ座のガレー船。(Morrison and Williams, 1968) (Original image from: Murray, A. S. 1899. A New Vase of the Dipylon Class, Journal of Hellenic Studies.)

紀元前8世紀の終わり頃になると、従来のガレー船と異なり、常駐的に上下二段にわかれた漕ぎ座に漕ぎ手を置いたガレー船が登場しました。

漕ぎ座を二段にするという新たな発想は、造船技術と海上戦闘の両面で非常に重要なものでした。まず漕ぎ手の数を2倍に増やすことによって推力の飛躍的向上が図れます。同時に漕ぎ手の数を増やしたとしても船体を長くしなくてすむことによって、船体の強度を保つことができます。また短い船体は敏捷性があり、敵のガレー船のラムによる体当たり攻撃の的になりにくくなるという利点もあります。

水中考古学 ガレー船 10古代ギリシャの都市国家アテネから発掘された土器片① (紀元前710年~紀元前700年頃)に描かれた二段漕ぎ座のガレー船。(Wachsmann, 2009) (Original illustration from Morrison and Williams, 1968) 水中考古学 ガレー船 11古代ギリシャの都市国家アテネから発掘された土器片②(紀元前710年~紀元前700年頃)に描かれた二段漕ぎ座のガレー船。(Wachsmann, 2009) (Original illustration from Morrison and Williams, 1968)

紀元前700年頃には、漕ぎ手が外部からの攻撃から守られような防護壁が備わったガレー船も登場しました。このガレー船は以前の漕ぎ手が外部から見えるようになっていたアフラクト・ガレーに対し「カタフラクト・ガレー」と呼びます。

また漕ぎ手が守られているかはそうでないか、漕ぎ座が1段か2段か、さらに漕ぎ手が50人かそうではないかに関係なく、次に新たなタイプのガレー船である「トライリム (Trireme) 」が登場するまでの間、古代ギリシャのガレー船は「ペンテコンター」と呼ばれていました。

古代フェニキアの2段漕ぎ座ガレー船(紀元前690年頃) 水中考古学 ガレー船 13アッシリア王国の王宮で見つかったレリーフ画に描かれたフェニキアの艦隊。(Morrison and Williams, 1968) (Image from: Barnett, R. D. 1969. Ezekiel and Tyre. Eretz Israel 9: 6-13. Image courtesy Israel Exploration Society)

アッシリア王国のセナケリブ王(王位紀元前705年~紀元前681年)の王宮でみられるレリーフ画(紀元前690年頃)は、紀元前701年のアッシリア王国とヒッタイト帝国との海戦を描写しています。

その一場面に、当時アッシリア王国の占領地であったフェニキアの都市国家である「サイダ (Saida)」 の王が、ティルス(Tyre: フェニキアの都市国家)からキプロス島に脱出する様子が描かれています。サイダの王の艦隊の船は2段の漕ぎ座をもち、漕ぎ手はより強固な防護壁に守られています。上部に見える甲板も防御用フェンスと盾によって守られています。以前にみたガレー船よりも外部からの長槍や弓矢の攻撃に対し漕ぎ手がより守られる船体構造になっていることが判ります。

水中考古学 ガレー船 22アッシリア王国の王宮で見つかったレリーフ画に描かれたフェニキアのガレー船。船首のラムが何かに覆われているようにみえます。(Morrison, 1995) (Image courtesy the British Museum)

セナケリブ王の王宮のレリーフ画で見ることのできる別のガレー船のレリーフ画でラムの部分を詳しく見ると、そのラムが何かで覆われているように見えます。これが金属板ならば、時代背景から青銅の金属板である可能性が大きく、ラムを金属板で覆うという行為は明らかに敵船の船体を貫通されるという攻撃的な意図を持っており、紀元前700年頃までには敵船に船首(ラム)から突進して敵船を沈めるという戦術がとられていたことになります。

紀元前500年頃の古代ギリシャのガレー船 水中考古学 ガレー船 15アテナから発掘された古代ギリシャの陶器(紀元前500年頃)に描かれたラウンドシップのホルカス船 (Holkas) とガレー船。(Morrison and Williams, 1968) (Photo courtesy the British Museum)

ホルカス船の章でも紹介した古代ギリシャの都市国家アテネから発掘された陶器に描かれたガレー船。ここに描かれたガレー船も漕ぎ座は二段になっており(見える漕ぎ手は二段目だけですが、オールがその下部からも出ているので船体内部の一段目にも漕ぎ手がいるのがわかります。)、またこのガレー船にはマストも立っており、帆にはこの時代の他の帆船と同様にブレイルセイルが使われているのがわかります。

まとめ

古代地中海において、海上戦闘に使用された「ガレー船」がどの様に進化していったかが見て取れたことでしょう。ガレー船は紀元前500年頃には漕ぎ座が三段のなったトライリムへとさらに進化して、古代ギリシャを古代地中海の覇者へと押し上げていきます。次はいよいよ古代ギリシャ文明の戦艦「トライリム」を見ていきましょう。

<古代地中海の覇者、古代ギリシャのトライリム(三段櫂船) (紀元前500年頃~300年頃)>

<参考文献>

BASS, G. F. (1974). A History of Seafaring Based on Underwater Archaeology. London, Book Club Associates.

CASSON, L. (1973). Ships and seamanship in the ancient world. Princeton, N.J., Princeton University Press

MORRISON, J. S. (1995). The age of the galley: Mediterranean oared vessels since pre-classical times. London, Conway Maritime.

MORRISON, J. S., & WILLIAMS, R. T. (1968). Greek oared ships, 900-322 B.C. Cambridge, Univ. Press.

WACHSMANN, S. (2009). Seagoing ships & seamanship in the Bronze Age Levant. College Station, Texas A & M University Press

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